佐藤寿人が名古屋で求めた喜び。5クラブを渡り歩いたベテランFWの献身【谷間の世代と呼ばれて】 - サッカー魂

佐藤寿人が名古屋で求めた喜び。5クラブを渡り歩いたベテランFWの献身【谷間の世代と呼ばれて】

佐藤寿人が名古屋で求めた喜び。5クラブを渡り歩いたベテランFWの献身【谷間の世代と呼ばれて】 2017/12/4(月) 12:27配信 フットボールチャンネル 佐藤寿人が名古屋で求めた喜び。5クラブを渡り歩いたベテランFWの献身【谷間の世代と呼ばれて】 J1昇格プレーオフ優勝の盾を掲げる名古屋グランパスFW佐藤寿人【写真:Getty Images】  1979年生まれ組が「黄金世代」と称される一方で、「谷間の世代」と呼ばれていた1981年世代。ワールドユース(現U-20W杯)や五輪ではグループステージ敗退を経験したが、2010年の南アフリカW杯では決勝トーナメントに進出した日本代表チームで軸となる世代となり、今なおJクラブで主力を担う選手たちもいる。この世代の中心的選手であり、名古屋グランパスのJ1昇格に貢献したFW佐藤寿人は、自身のサッカー人生について何を思っているのだろうか。(取材・文:元川悦子)

【Jリーグ】登録選手・加盟クラブが支払った代理人報酬ランキング 佐藤寿人が名古屋で求めた喜び。5クラブを渡り歩いたベテランFWの献身【谷間の世代と呼ばれて】 広島では同い年の森崎和幸、浩司らと3度のリーグ制覇を経験した【写真:Getty Images】 ●「来年はJ1で風を吹かせましょう」

 名古屋グランパスの本拠地・豊田スタジアムで12月3日に行われたJ1昇格プレーオフ決勝。3位・名古屋は4位・アビスパ福岡に引き分け以上で1年でのJ1復帰が決まるという条件下で大一番に挑んだ。

 背番号11をつけるキャプテン・佐藤寿人はもちろん先発。シモビッチの背後にガブリエル・シャビエルと陣取る形でスタートしたが、名古屋らしい華麗な攻撃サッカーがなかなか見せられない。佐藤寿人もチャンスらしいチャンスが巡ってこない中、献身性を前面に押し出してピッチを走り回った。

 後半8分に玉田圭司と交代してベンチに下がった後は、声を枯らしてチームメートを鼓舞し続ける。そうやって縁の下の力持ちになれるのも佐藤寿人の大きな強みである。そんな36歳のベテランFWの思いが結実し、名古屋は0-0でついにタイムアップの瞬間を迎える。背番号11も喜びを爆発させた。

「本来のサッカーには程遠かったけど、J1に戻りたいというみなさんの思いが最後まで僕らを走らせてくれた。ここにいるみなさんと来年はJ1で風を吹かせましょう」

 力強くこう語った佐藤の目は、いち早く、2018年シーズンに向いていた。

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 同期の阿部勇樹(浦和)、双子の兄・勇人(千葉)とともにジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)ユースで育ち、2000年のトップ昇格後は市原を皮切りにベガルタ仙台、セレッソ大阪、サンフレッチェ広島、名古屋グランパスと5つのクラブで18年間のプロキャリアを歩んできた佐藤寿人。

 広島時代の2012、2013、2015年のJリーグ制覇、2012年のMVPと得点王のダブルタイトル獲得など、輝かしい栄光を手にしてきた彼は、言わずと知れた日本サッカー界の看板選手の1人である。

●ピッチ上でプレーすることへのこだわり

 その佐藤寿人が今季、J2初降格を強いられた名古屋へ移籍したことは、多くの人々に驚きを持って受け止められた。過去にセレッソ、仙台、広島でそれぞれJ2を1シーズンずつ戦ったことはあるが、ベテランになった今、あえて2部リーグに身を投じることは、やはり勇気のいることだったに違いない。

「12年過ごした広島からは残留のオファーももらいました。同じ年の浩司(森崎)は引退してしまったけど、カズ(森崎和幸)もいるし、広島ではホントにいい仲間に恵まれた。そこで現役を終えるっていう選択肢も自分の中にはありました。だけど僕は『ギラギラしながらサッカーをすることの喜び』を追い求めたかった。

 そのためにはピッチ上でプレーすることにこだわり続けないといけない。名古屋は『1年でJ1に戻る』という明確な目標もありましたし、自分の仕事はハッキリしている。迷いはなかったですね」と35歳の点取り屋は決断の理由を改めて口にする。

 名古屋を率いる風間八宏監督は94年に広島をJリーグステージ制覇へと導いた時のキャプテン。佐藤にとっては広島の先輩に当たる。自身も36歳まで長く現役を続けた選手だったこともあり、ベテラン勢に対しても容赦なく負荷の高いトレーニングを課した。

「昨季の広島では日本人最年長で、ゲーム形式を1本やったら2本目はやらないとか負荷を軽くしてもらったこともありました。でもここは毎日フルメニュー(笑)。18〜19歳の若手と、ナラ(楢崎正剛)さん、タマ(玉田圭司)さんといった35歳以上の選手が全く同じ練習をこなしています。

 そういう1つ1つが僕にとっての新たな刺激。今季は序盤にケガ(右ハムストリングス筋損傷で全治6週間)もあったし、サイドハーフで使われたりしましたけど、新たな経験ができている」と佐藤は言う。

 それが1年でのJ1復帰を引き寄せる原動力となったに違いない。今季J2では28試合出場5ゴールと佐藤にしてはやや数字的に物足りなさを感じさせたが、36歳のストライカーとしては上々のパフォーマンスと言ってもいいかもしれない。どんな時も前向きにサッカーに取り組む姿勢は、その数字以上にチームに好影響を及ぼした。

●苦しかったプロ3〜4年目。プレーの幅を広げる必要性

 明るくひたむきで清々しいキャラクターは10代の頃から変わらない。2012〜2016年にかけて日本プロサッカー選手会(JPFA)会長を務めたことからも分かる通り、佐藤寿人の人望の厚さは誰もが認めるところだ。だからこそ、日本サッカー界で長く輝き続けていられるわけだが、本人は「そこまで順調な人生でもなかったですよ」と苦笑いする。

「『谷間の世代』と言われた僕らの世代はプロになってから順調に行った選手が少ないのかなと思います。みんなさまざまな成長曲線を描いていたから、全員の力が結集して爆発することがなかった。もし絶頂期が一致していたらもっと面白かったし、伸二(小野=札幌)さんたち2つ上の黄金世代にも負けない結果を出せていたのかもしれないですね。

 僕自身も10代から2001年ワールドユース(アルゼンチン)くらいまでは順調だったけど、そこから2004年アテネ五輪くらいまでが難しい時期だった。ちょうどプロ3〜4年目はセレッソ、仙台で苦労していたし、自分はアテネにも行っていないですからね。

 苦しい日々の中で考えていたのが『自分の武器を作らないといけない』ということ。裏に抜けるというユース時代からの特徴だけでは生き残っていけない。もっとプレーの幅を広げる必要があるなと感じて、いろんなFWの動きを勉強しました。

 ヤナギ(柳沢敦=鹿島コーチ)さん、タカ(高原直泰=沖縄SV)さんからは学ぶことが多かったですし、播戸(竜二=大宮)さん、大黒(将志=京都)さんからは特に大きな刺激を受けた。2人はゴールから逆算したプレーをしていましたからね。

 特にバンさんは98年アジアユースの決勝・韓国戦に象徴される通り、泥臭いゴールを決める人。そこは自分の琴線に触れるところがありました」と彼はもがいた20代前半の頃を振り返る。

●日本代表では31試合中29試合が途中出場だった

 大きな転機が訪れたのは2005年。新天地・広島に赴いた時だ。当時の指揮官・小野剛監督(FC今治育成ディレクター)は2001年ワールドユースの日本代表コーチ。佐藤寿人ら「谷間の世代」と言われた彼らに強い思い入れがあり、「この選手たちを何とかしなければいけない」と口癖のように言っていた。

「カズ、浩司を筆頭に、2005年は同期が7人いた。ほとんどの選手と年代別代表でプレーしたことがあって、すんなりチームに入れました。特に大きかったのが、カズ、浩司、コマ(駒野友一=福岡)の3人。彼らの支えがあったから、広島では移籍1年目から活躍できたと思います。

 小野さんの後のミシャ(ペトロヴィッチ監督)、森保(一)さんも大きな信頼を寄せてくれてくれたし、アオ(青山敏弘)や洋次郎(高萩=FC東京)、陽介(柏木=浦和)といった優れたパッサーも成長してきた。

 僕自身、若い選手を引っ張り上げないといけないという意識が強かったので、彼らにはかなり要求しました。自分がコンスタントに得点できたのも、こうした選手たちのお膳立てのおかげ。深く感謝しています」と佐藤寿人は神妙な面持ちで言う。

 広島で数字を残したことで、日本代表にも呼ばれるようなった。初キャップはジーコ監督時代の2006年2月のアメリカ戦(サンフランシスコ)。長谷部誠(フランクフルト)と一緒に代表デビューを飾ったのだ。

「ジーコさんの時はホントにストライカーとして評価してくれたんで、一番やりがいがあったというか。『点を取ればいい』と思い切って行けましたね。

(イビチャ・)オシムさん、岡田(武史=FC今治代表)、ザック(アルベルト・ザッケローニ監督)の時も呼ばれましたけど、オシムさんと岡田さんの時は頭で整理しなくちゃいけないことが多かったし、まだ若くて、ゴールを取りたい気持ちと与えられた役割のバランスが難しかった。特に岡田さんの時はサイドハーフとか、3トップのサイドで起用されて、消化しきれない自分がいましたね。

 この前、気づいたことがあったんです。ナラさんが『Aマッチ最多途中出場選手は誰でしょう』って聞くから、『ああ、俺だ』と(笑)。29試合が途中出場っていうのはダントツ1位。先発は2試合しかないんで。でもジョーカーっていうのもサッカーにおいてはすごい大事。これから拓磨(浅野=シュツットガルト)もそういう強みを出せるんじゃないかな。FWはやっぱゴールが全てだから」と佐藤寿人は誇らしげに笑った。

●「本当に俺らは『谷間』だったのかな」

 結果としてワールドカップには参戦できず、夢だった海外移籍にも踏み切れなかったが、Jリーグで比類なき実績を打ち立て、長くピッチに立ち、今なお高みを目指し続けているのは賞賛されるべきこと。

「谷間の世代」と言われた彼の仲間には同じような選手が数多くいる。今となっては「本当に俺らは『谷間』だったのかな」と本人が改めて問題提起するほど、高いレベルでコンスタントにプレーしている面々が少なくない。

「何であの『谷間の世代』って言葉が出てきたんだろうね……。あの言葉が僕らを傷つけ、逆に発奮させ、努力させたのは確かだと思います。だからこそ、多くの選手が第一線で長くやれている。

 自分も『やってやる』って気持ちはつねに持ってました。南ア(W杯)で同期のメンバーが活躍した時は『俺もあの場に立ちたかった』と悔しかったし、本気でイタリア行きも考えたけど、『広島でタイトルを取るんだ』って切り替えてそれを果たした。その経験は大きな財産になってます。

 今季もJ1を目指して戦えたことがすごく幸せ。いかに勝ち点3を積み上げていくかという課題に集中できたから」と佐藤寿人は全身全霊を込めてピッチを走り続けられる今を心から楽しんでいる。その時間が来季以降も長く続くことを祈りたい。

(取材・文:元川悦子) フットボールチャンネル

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